【01】「創立四十周年記念式典」

 四十周年記念式典の会場入口でお待ちしていると、家主様やお取引先様やお世話になった方々の懐かしい顔、顔、顔・・・「いらっしゃいませ」、「こんにちは」・・・。

 コロナのせいで延び延びになっていた「創立四十周年記念式典」は、二〇二一年十一月十九日午後五時、ようやく幕を開けた。

 一年前から当社経理部長の前田久子を中心に、社員が各係に分かれて、「これはどうだろうか。いや、あれがいい」などと手探りで、そして手作りで、準備は進められてきた。(記念誌係、ビデオ係、式典係、来賓係、記念品係・・・。)

 そしてついにその日が来たのだ。

 式典は、当初は社員が私の誕生日の十月二日に設定してくれたが、なかなかコロナ収束のめどが立たず、結局、決算期末ギリギリの十一月十九日に延期することとなった。

「その頃には何とかコロナも下火になっていてほしい」

社員一同、祈るような気持ちだった。

 私たちの祈りが通じたのか、十月末にかけてコロナは急速に下火になり、幸運にも十一月半ば頃には世間的にも集会が許されるような雰囲気になっていた。

 その後、二〇二二年に入って再びコロナが蔓延したことを思うと、このタイミングで実施できたことは、「奇跡はある」とまでは言わないが、非常にラッキーなことだった。

 式典は、長らくその類いの集まりがなかったため、皆様にも新鮮さを持って迎えられた。

 余興には、YouTubeを見て印象に残っていた少女歌手、東あきさんに白羽の矢を立てた。何のつてもなく、思い切って直接事務所に電話をしたところ、予想に反して出演を即決で承諾してくれた。

 東あきさんの珍しいヨーデルや、若くてフレッシュな歌声は、会場の雰囲気を和ませ、盛り上げてくれた。食事中の諫早交響楽団の室内楽演奏も、上品で落ち着いた雰囲気を醸し出してくれて、成功だった。

 ただひとつ、式典の最後に私が飛び入りで歌った「マイウェイ」は余計だったが・・・。「創立四十周年記念式典」が終わった直後、私は京都へ向かった。自分史「奇跡はある」

を書く大きなきっかけにもなった親友の木下和之に、報告を兼ねて会うためである。

   

【02】木下君と割烹「きたさと」

 木下夫妻との会食の場所は、京都祇園の「きたさと」という瀟洒な割烹だった。

 私は、静かな佇まいを見せる祇園の路地を、足取りも軽く目的の店へと急いだ。「きたさと」では、出される京料理に舌鼓を打ちながら、木下君ご夫妻と積もる話に花を咲かせた。

 「とっくん、よう頑張ったな」と、木下君は今までの私の歩みや自分史出版を我が事のように喜んでくれた。

 ところでその店「きたさと」だが、私の故郷熊本県小国町出身の人が経営する店で、偶然にも木下君が見つけたのだ。

「とっくん、君の故郷の小国町出身の人が経営している割烹が、我が家の近くにあるよ。北里さんという人が経営者だよ」

 その店は、祇園に出店する前は、木下君の医院兼住まいがある比叡山の団地の中にあって、たまたま木下君が見つけて、行きつけになっていたのだ。

 九州の熊本の山奥の小さな町から出た人が、たまたま広い日本で京都の比叡山を選んでお店を出して、そのお店を私の親友の木下君が知り、そして同郷の私が知ったという流れは、「奇跡はある」とまでは言わないが、縁の不思議さを感じずにはいられない。

 北里さんは、昔小国町一帯の総庄屋の家柄で、有名な北里柴三郎の本家筋にも当たることが後でわかった。

 その日は、達成感に満ちた気持ちで、当社の京都ホテル「ジスコホテル京都御所西」で深い眠りについた。

 翌日は堺市に立ち寄って、大阪府立三国ヶ丘高校の同級生の金子君や北さんたちと久しぶりの再会を果たし、

旧交を温めた。

 ところで、京都のホテルのことだが、二〇一八年秋、突然SMBC信託銀行の久家さんから連絡が入った。

「突然ですが、京都のホテルを買いませんか」

 それまで北九州や広島など、何度か物件の紹介はいただいていたが、いずれもピンと来ず、見送っていた。

 ところが今回、「京都」と聞いた時、私の五感は敏感に反応した。

 母が京都の隣りの滋賀県出身でもあり、私も、一九七三年頃から六年間ほど大津市に住んでいた。その間、一九七四年には京都で妻と見合いをして、一九七五年に結ばれた。

 独身時代、よく大津から大阪への通勤の帰りに、金もないのに京都の夜の街をぶらついたものだ。その頃、路地の小料理屋の灯りはとても眩しく、羨ましかった。

 京都は、親友の木下君が住んでいる所でもあり、また、自分史「奇跡はある」を書くきっかけにもなった、長女のアメリカ留学時のホームステイ先のジェラード夫妻との出会いの場でもある。

 そしてさらに、次のようにも思った。

「京都は、日本の古都であり、長く天皇が住む首都でもあった。そこに、しかも京都御所のすぐそばに、ホテルを持つことは、望外のステータスでもあり、会社のイメージアップにもなるのではないだろうか」

    

【03】京都ホテルと二〇二一年末

 京都ホテル購入の検討に当たっては先ず、常務でホテル責任者の島あゆみが、トップバッターとして現地視察に向かった。京都では、SMBC信託銀行京都支店の案内でつぶさに物件を見て、「場所や建物は問題ありません」との朗報を持って帰ってきた。

 その後、私を含めて上席執行役員中村英理子や同じく上席執行役員河野一郎や幹部たちが数回現地を見学し、諸点を確認のうえ、ついに購入を決断して二〇一九年六月、売買契約を締結して、九月に最終取得した。

余談だが、京都ホテルまでは、伊丹空港から予約タクシーを使えば最短二時間で行けることが、何度か行き来するうちに分かった。二時間と思うと、京都出張もさほど苦ではなくなった。

 ホテルの名称は、「ジスコ」の名を京都にとどめたいとの思いから、「ジスコホテル京都御所西」とした。門構え以外にさして特徴のないビジネスホテルだが、「京都御所に一番近いホテルのひとつ」という点は、自慢できる特徴だと思う。

 マネージャーには、私の次女徳永佳奈を当てた。私のいとこで京都に住む平塚弘美も、勤務してくれた。

 京都御所は、ホテルから1分程度のところにあり、広々とした敷地は、散歩や植物鑑賞や気分転換にもってこいである。

 私も、自社ホテルに泊まったときは、必ず御所を訪れ、開放感に浸るとともに、しばし歴史の悠久さを肌で感じている。

 御所に近いということは、しかし、賑やかな三条や四条からは遠いということで、閑静すぎるというのが欠点である。

 二〇二〇年コロナ禍が始まって以来、インバウンドは去り、国内旅行の火も消えて、京都ホテルの採算は極端に悪化している。今のところ、グループの他のホテルが堅調で、なんとか損失をカバーできているが、いつまでもそれを続けることはできない。

 二〇二四年にはホテルのすぐ近くに文化庁が引っ越してくる。たいへんな朗報で、期待するところ大だが、しかし、座して待つだけでは低迷からの脱却は程遠い。自らの「知恵と努力」で、なんとか早期に採算に乗せたいと思う。「ピンチはチャンス」だ。

 二〇二一年十一月記念式典後、私は京都出張を最後に、久しぶりにゆっくりと年末と正月を過ごすつもりでいた。

 しかし、それを「許さない」とばかりに、年末にかけて次々と重要な案件が舞い込んできた。

 不動産関連では、七億円を超える呉市のビル、市街化調整区域にチャレンジする諫早市宗方町の第二期開発、UR都市機構案件、複数の賃貸マンション取得などなど・・・。

ホテル関連では、完成を控えた長崎ホテル、小浜温泉の雲仙荘、島原市のHotel&Spa花みずきなどなど・・・。

 これらは、来る年の多忙さを暗示して余りあるものだった。

    

【04】新規案件と続編について

記念式典や京都出張も終わって、ゆっくりしようとしていた矢先、二〇二一年の十一月から十二月末にかけて、我ながらダイナミックと思える案件の動きが相次いだ。

 とりわけ、呉市のビル購入の件が持ち込まれた時には驚いた。呉市は、名前こそ知っていたが、行ったこともなければ、考えたこともない町だった。

「当社とはあまり関係がない」そんな第一印象を持った。

 購入金額が七・四億円と聞かされた時には、さらにその思いを強くした。

 しかし、三井住友銀行から融資が得られる見通しが立ちそうなことや、テナントが広島銀行や日本生命や日本製鉄など超優良企業ということや、収益性も魅力的なことなどが分かってくるにつれ、私の気持ちは前のめりになり、ついに二〇二一年末、購入を決心した。

賃料収入としては月800万円あり、当社としては最大のテナントビルだが、何分呉は遠い。先日行ったときなどは、昼食を取るタイミングがなく、ローカル線の駅で乗り継ぎの列車を待つ間に、ホームのベンチで弁当をかき込む有り様だったが、恥ずかしくもあり、食べた気がしなかった。

 

続編について

 

新聞連載が始まってからは、よく顔見知りの人から声をかけられた。

「新聞見てますよ。けっこう面白いですね」「読みやすいですが、ご自分で書いたのですか?」

 お褒めの言葉は嬉しくはあったが、多分にお世辞も混ざっているに違いなく、半信半疑で聞いていた。

 年が明けて二〇二二年二月、長崎市内で開催されたある団体主催の講演会の席でのことだった。たまたま左に座った初対面の方から「新聞連載、見てましたよ」と声をかけられた。続いて右隣りの方からも「連載、面白かったですね」と告げられた。

 これらの方々は、私の住む諫早市ではなく長崎市にお住まいで、仕事やお付き合いとは何の関係もなかった。

 この時である。私に、「可能なら続編にトライしてみたい」との思いが芽生えたのは。

 自分が書いた物を他人に見せるなどは、長い人生で考えたこともなかったし、その機会もなかった。真剣にペンを走らせたのは、銀行融資のときのお願い文くらいのものである。

 しかし、たまたま書いた連載文が、全く見ず知らずの人に見ていただけただけでなく、「面白い」との印象や評価までいただけたことは、自分でも驚きで、書くことに自信とやる気が生じたのだ。

 その後その思いは多忙さの中で埋もれていったが、自分史連載をお勧めしていた方の突然のご入院を機に再び頭をもたげ、「ピンチヒッターとして連載するのはどうだろうか」との思いになった。

 長崎新聞社さんに、押し売りのような形で相談した結果、受け入れていただき、続編を連載できるようになったことは、「奇跡はある」とまでは言わないが、夢のようではある。

 

【05】市街化調整区域

 二〇二一年一月、大豊工業の野中豊会長さんがお見えになり、近隣の土地について話しを切り出された。

「徳永さん、地元で田んなかを持っている人たちは、どこも高齢化で耕すのに苦労してますよ」、「中には耕作放棄地もたくさん出ています」とのことだった。

 地元に住んでいて、自分も水田を所有している野中さんの言葉には、我が身も重ねて、「地元をなんとかしなければ」という切実な思いが込められていた。

 そのお話を受けて、すぐに地権者の方々に当たったところ、すでに野中会長さんが十分に説明をしていただいていたので、地権者の方々もすんなり契約に応じていただき、開発許可もスムーズにおり、諫早市宗方町の「第一期団地」は二〇二一年六月、スタートした。

 もともと私は、「市街化調整区域制度は賞味期限切れ」が持論で、チャンスがあれば調整区域の宅地開発にチャレンジしたいと考えていた。

 今回はそれに加えて、地元の野中さんの情熱と積極性が推進力になった。

 ところで、市街化調整区域は昭和四十四年、高度成長期の頃、無秩序な開発を防ぐために設けられた制度だが、過疎化が進む今となっては、それを後生大事に守る意味は薄れている。

むしろ、過疎化や少子化が急速に進行する今こそ、廃止や弾力的運用の方向に積極的に舵を切らなければいけないのではないか。

 米国の実業家イーロン・マスク氏の次の言葉はショッキングである。「日本が今のように出生率が死亡率を下回る限り、やがて日本は消滅する」

 この危機感は、全国の多くの市町で共有されている。

 諫早市も同様で、新市長の大久保潔重さんは、「調整区域の大幅な緩和」を公約に掲げて当選し、積極的に取り組む姿勢を見せている。

 第一期団地の工事がスタートして三カ月くらい経った二〇二一年九月のある日、野中さんから突然、「徳永さん、別の広い田んなかも、開発の可能性がありますが、どうで

しょうか?」と持ちかけられた。

 そこは、第一期の土地よりも国道や小学校に近く、面積も一万六千平方メートル(約五千坪)と広く、区画数にすると67区画にもなる、たいへん魅力的な土地だった。

 しかし一方で、調整区域に加えて農振地域という高いハードルを抱えていた。

 諫早市に確認した結果、どちらの問題もクリアできそうなことが分かり、「鉄は熱いうちに打て」とばかり、野中さんと私は集中的に地権者様との話し合いに当たった。その結果、二〇二一年の暮れには全地権者様と契約を取り交わすことができた。

 それにしても、野中さんのような情熱的で精力的な人を私は他に知らない。

 

【06】宗方町第二期団地、もとの湯

二〇二二年二月、かねて噂されていた「ゆめタウン」計画が正式に発表された。場所は、私たちが計画している宗方町「第二期団地」のすぐ近くだ。完成予定は二〇二五年度とのこと。

 それを聞いたとき、私たちは第二期団地が「ゆめタウン」と軌を一にして完成することを夢見た。しかし、開発申請の最終段階になって突然、手続きが暗礁に乗り上

げた。その理由は、対象土地の一部が農業生産基盤整備事業として、僅かだが補助金を受けていたからというもの。

ひとたび補助金が入れば八年間、農地以外として利用するための手続きができないというのはあまりに農業者を縛り過ぎではないかと考え、補助金返還を条件にした弾力的運用を県に打診したが、解決の見込みは立たないままだ。

しかしこの間、野中さんや北村測量設計の北村社長や、誰よりも地権者の皆様方が、この問題に真剣に取り組んでくれて、皆の連帯感はむしろ深まった。

 奇跡は望めないかもしれないが、「転んでもただでは起きない」とばかり、今、新たな展開に挑戦しようとしている。

 

 もとの湯

 

二〇二二年一月、日頃親しくしているシモハマ不動産の下濱誠一郎社長から「物件を紹介したい」との電話が入った。その物件は、諫早市本野町にある「もとの湯」という温泉施設だった。

「たしか、以前行ったことがあるな」とは思ったが、記憶は曖昧だった。

しかし、数日後、下濱社長や所有者の株式会社高橋の責任者の方の案内で現地を見たとき、以前家族と行った時の記憶が蘇ってきて、懐かしさを感じた。と同時に、当時は気づかなかったが、建物が大きくて手入れも行き届いており、驚いた。しかも、駐車場は数百坪もあり、そこも何かに利用できそうな気がした。

「他にも検討しているところがあります」と言う下濱社長の言葉に押されて、「購入を検討します」と、つい強いコミットメントをしてしまった。

いったん口にすると、人間なかなか後へ戻れないものだ。

「その言葉に沿わなければ」と、使い道を模索したが名案が浮かばず、約束した検討期限がきたので、下濱社長に「購入します」と返事をした。

今、温泉掘削の再申請や大衆浴場法に基づく利用申請を進めているが、申請はスムーズに進行している。傷みが目立った箇所の補修も進行中だ。

そうした中で、「いつからオープンですか?」とか「ヨガをしていました」とか「お湯の質がとても良かったですよ」など色々な期待のお声が耳に入ってくる。

しかし、時は折しもコロナ禍の真っ只中。閉店するところはあっても、新たにオープンする公衆浴場などないだろう。まして、経験もノウハウもない当社としては、嵐の中を簡単に航海へは出て行けない。

とは言え、この地域の多くも市街化調整区域や農振地域として指定され、縛りを受けたまま日の目を見ずに人口減少と過疎化に悩む地域なので、私たちの手で少しでも光をもたらすことができればとの思いは募る。

時間をいただきながら、今後徐々に計画を固めてゆきたい。

 

【07】ふるさと納税

二〇二二年一月十五日、私は一路阿蘇郡小国町へと急いだ。大分自動車道をひた走る車のハンドルは軽かった。同町へのふるさと納税三千万円の感謝状贈呈式に臨むためである。

 私の故郷熊本県阿蘇郡小国町は、熊本県と大分県の県境にある草深い田舎町で、所在を知る人は少ない。しかし、二〇二四年度には、小国町出身の北里柴三郎が、新千円札の表紙を飾ることになっていて、その日を今や遅しと待っている。

 ちなみに、北里柴三郎は、慶応大学医学部や北里大学などの設立にも深く関わり、「近代日本医学の父」と称されている。

 少年時代、私は親と一緒ではなかったために、人とは少し違った生活を送った。そのため、故郷には特別な思い入れがある。それは、その後の人生でいつも心のどこかに深く潜んでいた。

 親代わりに養ってくれた祖母や伯父さん、人一倍目をかけてくれた先生方やタクシー会社の従業員さん、そして多くの幼馴染みや親友たち。

 書きながら思いを巡らせるうちに、今は亡き同級生たちの顔が浮かんできて、ふと涙ぐむ。一豊、龍ちゃん、邦子ちゃん、恭介、末男、啓紀ちゃん・・・。

 そして、同時に、私を育んでくれた故郷の自然。あの高々と聳え立つ杉の木立ち。何度寝る前に見上げたことだろう。子守唄代わりにいつもせせらぎを奏でてくれた裏の川。ときには濁流となって自然の恐ろしさを見せつけたが。その川に泳ぐハヤや、水遊びのときにいつも身体を休めた愛用の大きな石。外輪山を越えて行き来するときに目の前に現れる雄大な阿蘇山。

 自然は何も語らないが、それらは人生の道々で、優しく慰めてくれたり、時には強く生きろと励ましてくれた。

 そんな故郷に対して「ふるさと納税」を思いついたのは、二〇二一年秋口のことである。

 会社創立四十周年記念事業として何か対外的に役立つことをしたいとの思いから、諫早市に1億円を寄付することを考えたが、使途の点で話が煮詰まらず、実現に至らなかった。その後、肥後銀行堀田勝利支店長から「ふるさと納税制度がありますよ」と紹介され検討した結果、節税のメリットも大きいことが分かり、結局、故郷小国町に対して三千万円を寄付することを決め、肥後銀行経由小国町に申し出た。

 ふるさと納税は、純粋な寄付と違って、税金対策の面もあり、手放しで自慢できるものではないが、小国町からは大変感謝された。

 一月十五日小国町役場で行われた感謝状贈呈式には小学校時代の同級生の太田文則君、鎗水盛春君、原田計介君の親友三人も参加してくれて、共に誇りと喜びを分かち合った。

 親が小国町を出るときに迷惑をかけた経緯もあって、贈呈式後、人知れずホッと大きなため息もついた。

 その日の夜は、杖立温泉で仲間四人で宿を取り、ささやかな祝宴をあげた。乾杯のビールの美味さは、いまでも喉元に残っている。

 今年再びふるさと納税ができるかどうか、今のところ予断を許さないが、もしまたその余裕が出れば、たとえ少額でも実施したいと思う。

 誰よりも、友人たちが喜んでくれるに違いない。

     

【08】子ども支援

「こんにちは!」、「いらっしゃい!」

 二〇二二年も子ども食堂は、元気のよいスタッフの笑顔とあいさつで始まった。

 保護者や子どもたちは、スタッフから次々に手渡される品物を順番に受け取る。その度に、保護者から「ありがとうございます!」の言葉が返ってくる。

 子どもたちからも、元気よく、中にはシャイな小声で、「ありがとう」の言葉が。

 この言葉こそが、私たちの活動の源かも知れない。

 子ども食堂を始めて間もない頃、たらみ様からゼリーをいただくようになり、三年前からは、日本ハム様からもたくさんの商品をいただいている。

そして、ボランティアの吉岡勝行さんや、最近は第一生命の皆さまからも、毎回たくさんの差し入れがあり、自らも配布に当たっておられ、頭が下がる思いである。

 保護者や子どもたちが重そうに袋を抱えて帰る姿を見るとき、私たちがささやかだが役に立っていることを実感する。

 その思いを原動力にして、ホテル開業のたびに子ども食堂をオープンして、現在八カ所に至っている。毎回、まとめ役の当社総務課長大橋麻梨子や経理部長の前田久子をはじめホテルや不動産の社員が、献身的な活躍をしてくれている。

 もう一つの子ども支援活動として、「子ども宅食」を実施している。子ども食堂が「一日分助かる」が目標なら、子ども宅食は「一週間分助かる」を目標にしている。毎月一万円〜六千円程度の食材を、選考したご家庭に直接届けるという形だが、今年は三〇世帯に送っている。年間三百万円くらいの出費なので、「子ども宅食」の金銭的負担は大きい。

 それらに加えて、この度創立四十周年記念事業として、新たに「子ども支援株式会社」を設立した。

 不動産とホテルからそれぞれ五千万円を同社に貸し付けて、同社は合計一億円を原資として債権などを購入し、その運用益や定期配当を子ども支援に充てるというスキームである。

 支援の内容は、@ほめたいこと、Aあげたいもの、Bかなえたいこと の3つとした。

もし、この連載を見てお心当たりのある方は、ぜひご紹介をお願いいたします。

 活動はまだ緒に就いたばかりで、最初のケースは、サッカーでバルセロナに研修に行く小学生に、渡航費用の一部を支援したことと、筆箱をほしいという低学年の子どもさんにそれをプレゼントしたことくらいである。

 今後、大きな運用益が出て、より大きな支援ができることを願っている。

 二〇二二年六月、NPO法人「全国子ども食堂支援センターむすびえ」の湯浅誠理事長が来社され、その時のお言葉が印象的だった。

「貴社のように企業が子ども食堂に積極的に関わっているケースは全国的に珍しいです」

 今後、私たちよりも大きくて資金力もある企業が次々と参画すれば、今よりも10倍どころではない強力な子ども支援体制が構築できることは間違いない。

   

   

【09】コロナ禍とストックビジネス

コロナは、日本では二〇二〇年一月から始まった。

 最初の頃は感染者数も少なく、私たちはまだその怖さを知らなかった。

 しかし、一月から二月、二月から三月へと感染が拡大の一途をたどるにつれ、深刻さは急速に日本列島の隅々まで浸透していった。

 一方、海外では日本以上に感染が急拡大し、死者も増え、ついに3月、「パンデミック宣言」が出された。

 それ以来感染は、拡大しては下火になり、下火になっては再燃するの繰り返しで、二年半以上、私たちはコロナに翻弄されて今に至っている。

 私たちのホテル業界はその中にあって、飲食業界とともに甚大な影響を受けて、苦境にあえいでいる。

 当社も、二〇二〇年二月から低迷を続けたが、しかし間もなく、ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング(株)長崎テクノロジーセンターの大増設工事が始まり、その需要のおかげで、致命的な打撃を免れている。

 もしその工事がなければ、当社ホテルは倒産の危機に瀕していたかも知れない。そう思うと、偶然の幸運に感謝するとともに、「奇跡はある」をあらためて想起せずにはいられない。

 ところで、長引くコロナ禍にあって、当社の不動産部の方はほとんど影響を受けていないが、これは、経営の基本が「ストック型」になっていることが大きい。

 ストック型は、仲介手数料等を収入源とする「フロー型」と違って、自らがアパートやマンション等を所有して、その賃料収入等を主な収益源とするビジネス手法だ。

 コロナ禍の数年前から私は、年齢的なこともあり、「ストック型」を重視して、収益物件を取得してきた。

 太陽光発電事業もそうだし、旧雇用促進住宅の六百戸購入もそうだった。そしてこの動きは、コロナ禍の二〇二〇年に入って、さらに加速した。

「ジスコさん、JR西日本所有の賃貸マンションを買いませんか」、「おたくに管理していただいているレジデンス親和を売りたいのですが」、「丸大食品の倉庫跡はどうでしょうか?」

 どの案件も優良物件で、収益性も高く、銀行も前向きに融資に応じてくれた。

 そして、呉ビル(広島県呉市)や五月完成のフロンティアききつU(諫早市)も加わって、家賃性売上は月一億円、年間十二億円になろうとしている。

 さらに、喜々津ステーションタウン内に賃貸マンションの第3号棟と第4号棟を建設し、タウン内の年間家賃を三億円にまで伸ばしたいと計画中である。

 しかし、ストックビジネスの成功は、優良物件の取得だけではなし得ない。

 それに加えて、厳しい環境の中でも家賃をキチンと支払ってくれているアパートやマンションの入居者の方々がいることを、忘れてはいけない。私たちは、その方々

の「善意や誠意」に支えられているのだ。

 今後、積極的な収益物件の取得の一方で、賃貸入居者の方々に家賃や設備やその他の条件の点で喜んでいただき、現代の「大家と店子」の関係を築いて行けたらと思う。

 

【10】青春の夢⑴

七十歳をとうに過ぎた今でも「貧乏暇なし」で、日々、仕事に追われている。

 そんな現実から逃避したいとき、私はたまに喫茶店に逃げ込む。独りコーヒーを啜るうちに、次第に雑念が払われて、考えがまとまったり、ときには忘却の彼方から過去の記憶が蘇ってくることがある。

 ある秋の日のことだった。立ちのぼるコーヒーのアロマとともに、大学時代の恋人橘明代(仮名)が、幻のように浮かび上がってきた。いや、その人は恋人と呼ぶにはあまりにも中身の薄い、片思いの人。

 私は目を閉じて、甘くほろ苦い思い出に、しばし身を委ねた。

 今からもう五〇年以上前、大学三年の春のことだった。女子大の寮と私たちの寮のコンパが企画された。私も、隣部屋の親友山下保則と参加した。そこで知り合ったのが、橘明代だ。

会場の喫茶店のテーブルに皆が着席したとき、私は相手方の顔ぶれをさっと眺め回した。

私の目が一瞬釘づけになった。その人は、明らかに他の人と雰囲気が違う。

 自己紹介のときも、その人、すなわち橘明代は際立って笑顔が素敵で、話し方もソフトで、私は強く惹かれた。歓談の中で数回言葉を交わすうちに、ますますその思いは強まっていった。

 コンパが終わって寮に戻ってきた時、さっそく山下が部屋にやって来て、開口一番、「徳永、橘さんすごかったな!俺、一瞬で参ったよ」

 山下も私同様、橘明代を見染めていたのだ。そして、それが青春の夢の始まりだった。

 それからというもの、部屋で雑談したり飲みに行った時、二人は決まって橘のことを話題にした。

 やがて山下は思い余って、「橘明代を個人的に誘ってみる」と言い出し、私に同行を求めてきた。

 直接だと断られると思った山下は、橘の友人の川野エミ(仮名)に先ず電話をかけた。意外にも橘明代たちは応じてくれて、2対2のデートが実現した。私の心は密かに弾んだ。

 短時間の喫茶店でのデートだったが、橘明代はずっと笑顔を絶やさず、会話も楽しく、時間はあっという間に過ぎて行った。それから数回の合同デートを経て、私たちの橘明代への思いはますます強くなって行った。

そして夏休みに入ったある日、山下が唐突に私に切り出した。

 「おい、徳永。橘さんに会いに行かんか!」

 橘明代は夏休みに宮崎に帰郷していたのだ。

 山下は自分の故郷が熊本ということもあって、そして何よりも会いたさが募って、そのような突拍子もないことを思いついたのだろう。

 私は、考えるふりをしたが、内心すぐに同意して、二人の宮崎への珍道中は始まった。

 

【11】青春の夢⑵

 事前に連絡もせずに着いた宮崎で、さっそく山下が橘明代に「明日会いたい」と電話を入れたが、「明日は忙しくて会えません」と、断りの返事だった。

 二日目を無駄に過ごした二人は、暗くなって旅館に戻ってきて、部屋の天井を見つめながら、ため息をついた。

「徳永、もう早くも明日は帰りの日ばい。何とか会わなきゃな」山下の焦りの言葉に、「そうだな」と私も応じた。

帳場に公衆電話をかけに行った山下が、やがて息を弾ませながらながら戻ってきて、九州弁で捲し立てた。

「徳永、明日俺たちが発つとき、橘さんは見送りに来てくれるてばい」

 それを聞いたとき、私は大きく胸を撫で下ろした。

 次の日、列車の出発時刻が迫ってきた頃、駅前ロータリーに黒塗りの車が滑り込んできた。

 私たちからやや離れた所でピタリと止まると、後部座席の窓が開き、中から声がした。私には確かにその声が「徳永さん」と呼んだように思えた。

 車から降り立った橘明代の姿は、南国宮崎の夏に相応しい涼やかな服装で、笑顔も弾けるようだった。

 そして、運転手つきの高級車は、橘明代の家庭環境を一目で物語っていた。

夏休みが終わって戻ってきた東京は、相変わらず雑踏と喧騒の渦だった。しかし、私と山下だけは今までと違っていた。橘明代への思いが、ますます募っていたのだ。

 東京に戻ってきて一ケ月後、ようやく会えた橘明代は、笑顔を見せながら盛んに宮崎でのお詫びを言った。

楽しい会話を交わしているその時、テーブルの下で橘明代の足が少し私の足に触れた。

「あっ、すみません」

橘明代が小さな声で詫びたが、私にはその所作が意図的だったように思えた。思い過ごしかも知れないが。

 翌年の一月、私たちや橘明代もいよいよ卒業が迫ってきたある日、突然、寮の管理室から私に連絡が入った。

「徳永さん、橘さんという女性の方が玄関にみえてます」

 私は半信半疑で玄関に急いだ。そこに立っていたのは、紛れもなく橘明代だった。私の驚きは歓喜に近かった。

「こんにちは。突然、すみません」

手短かに挨拶をする橘明代は、今までの明るい声や表情と違って、やや深刻な様子だった。

「私、卒業後実家に帰ることになりました」

 宮崎で見たお嬢様ぶりからして、「東京で就職せずに、宮崎で家業に就くことになったのかな」と思った。

「徳永さん、身体に気をつけて頑張ってくださいね」、「はい、ありがとう。橘さんも」、「それでは失礼します。山下さんにもよろしく伝えてくださいね。さようなら。お元気で」。別れの言葉のやり取りが続いた。

橘明代は、わざわざ別れの挨拶を言いに寮まで来てくれたのだった。去って行く後ろ姿をしばらく見送った。

 卒業して数カ月後、橘明代が角界のある有名な関取と婚約したことが風の便りに聞こえてきた。

 それを知った時、私は橘明代の幸せを密かに願うとともに、彼女とのことを「青春の夢」として心の奥深くにしまい込んだ。

 その後その関取は、大方の常識を覆して横綱まで昇進し、「伝説の綱取り」と称賛された。

 

【12】不動産競売

 二〇二一年十二月、四十周年記念式典が終わってひと息ついた頃、ふと不動産競売情報に目を通すと、小浜温泉の「雲仙荘」という文字が目についた。その物件は、数ヶ月前、ある業者さんから購入を勧められたが、融資がおもわしくなくて断念した物件だった。

 その後、当社の「浜観ホテル」の建替えの件も出てきたので、その代替にとも考えて、競売に参加することとした。

 ところで、不動産競売といえば、以前こんなことがあった。

 不動産を始めて間もない一九八三年頃、「不動産業をするなら、せめて広い土地を持っておこう」と思い立って、競売情報を調べているうちに、小長井町の広い山林が目についた。

 数日前から価格を考えて、「よしこれでいこう」と決めて、事前に入札書に書き込んで入札に臨んだ。ところが、会場には執行官と事務員以外には誰もいない。

 そこで欲が出て、「だれもいないのに高い値段で入れる必要はない」と思い、新しい入札書をもらって、最低価格に書き直して入札した。

 中庭で締め切りを待っていると、ドカドカと靴音高くふたりづれがやってきた。「入札物件が重なっていなければよいが。しかし、物件は複数あるので、まさか重なることはないだろう」と言い聞かせて、開札を待った。

 執行官の「今から開札を始めます」との呼び声で、私たちが入札箱の前に集まると、執行官は箱から入札書を取り出したが、その時、一瞬執行官の手が止まった。やがて読み上げた入札価格は、同額だった。

 少しでも端数をつけておけば全く同じ数字ということはなかったはずだが、二人とも敵がいないと思ったので、端数をつけなかったのだ。

 同額だった場合は、再入札になる。今度は敵が目の前にいるので真剣だ。「勝たなければ」と強く意識しながら、金額を短時間のうちに考えて再入札した。

 二回目の開札の時、入札書を見ながら執行官の表情が目に見えて曇っていった。なんと、またもや金額が同じだったのだ。

 執行官は焦りながら棚の上から分厚い書類を取り出して、調べ始めた。やがて吹っ切れたように言葉を発した。「それでは、ジャンケンをしてください」「えっ」と思ったが、執行官は真顔で続けた。「あみだくじで決めますが、それをどちらが先に引くかをジャンケンで決めてもらいます」

 厳粛な裁判所の中で「ジャンケンポン」の声が響いた。

 こぶしに力を入れたジャンケンだったが、私は負けた。その時に思った。「欲を出したり、ブレたりしてはよくないな」

 雲仙荘は、「これで負けたら仕方がない」という納得の行く価格を考えて入札した結果、無事落札できた。

 今後は、このホテルの再建が大きな課題だ。

   

【13】雲仙荘、花みずき

 二〇二一年十二月末、「雲仙荘」は落札が確定した。

 しかし、代金納付が済まないと、中を見ることができない。この点は、不動産競売制度の残念な点だ。

 二〇二二年二月、代金納付を終えると、さっそく私や工務部長の宇野哲郎やホテル責任者の島あゆみが現地に赴き、建物の内部を詳しく見たところ、全客室がベッドタイプということが分かった。また、温泉は薄めずに源泉のまま使うという珍しい方式ということも分かった。

 そして、何よりの特徴は、ホテルの床が共用部分から客室に至るまで全てフラットで、段差がないことだ。

 この特徴を生かして、最近クローズアップされ始めた「ユニバーサルツーリズム」のコンセプトのもと、高齢者や障害者の方にも利用しやすく喜ばれる施設にしたいと考えている。

 一方で、小浜体育館が二〇二二年四月完成した。

 同体育館は、バスケットボールとバレーボールの公式規格を備えており、大小団体の利用が見込まれている。それを通じて、温泉街の集客も大いに期待されている。

 当社「雲仙荘」は、この小浜体育館から徒歩四〜五分のところにあり、近さを生かして今後、体育館関係の需要を取り込みたいと考えている。

 遡って、二〇二一年十一月頃のある日、十八親和銀行の下田義孝ソリューション営業部長(執行役員)が来社され、その際、「徳永さん、MAに関心はありませんか」と聞かれた。

 MAという言葉は、聞いたことはあったが、経験したことはなく、意味もよく分からなかった。

説明していただくと、簡単に言えば、建物や土地など不動産ではなく、株式を売買する形ということだった。

 つまり、会社の株の所有者が変わるだけで、社員や会社名や営業許可などは原則そのままで、一言で言えば「オーナーチェンジ」ということだ。

 この手法は、中小企業のオーナーが、後継者がいないために廃業せざるを得ないことを防ぎ、雇用や蓄積された産業資産を維持するのに有効で、政府も奨励しており、銀行も積極的に普及に努めている。

 提案の対象物件は、島原市にある「Spa&Hotel花みずき」というホテルだった。

 その名前を聞いたときに、私は一瞬はっとした。

実は数年前、そのホテルを買わないかと勧められたとき、躊躇して買えなかったのだ。結局、元の所有者のお知り合いの建設会社が購入した。

 しかし、その建設会社は本業が忙しく、ホテル経営に専念できないので、黒字にもかかわらずMAを考えたのだ。

 二〇二一年十二月末、先方の桑岡隆太社長と顔合わせをすることとなった。

桑岡社長は、お会いするなり、待ち構えていたように、「徳永さん、新聞連載を愛読させてもらいましたよ」と笑顔でおっしゃられた。

 その後、話は連載の中身に及んだが、驚いたことに、桑岡社長は書いた本人以上に内容をよく覚えておられ、私としては感激するやら嬉しいやらで、時間はあっという間に過ぎていった。

    

【14】長崎ホテル

 「ジスコさん、長崎市上西山町の土地を買いませんか」

 二〇二〇年三月、みずほ不動産販売の小林さんから電話があり、諏訪神社近くの土地の購入を強く勧められた。

 お勧めの理由は、その土地が当社の所有しているビルの隣りの土地だったからだ。

「隣りの土地は倍出してでも買え」という不動産の俗諺があるが、確かに道理である。相乗効果が見込めたり、より大きな計画も可能になるからだ。

 私は、即座に「検討します」と前向きな返事をして、翌日、現地を見に行った。

 そこには、洋風の古い家が建っていたが、電車通りから遠目で眺めているうちに、私にはそこにビジネスホテルが建っている光景が浮かんできた。

「隣りには、駐車台数六十台収容の当社ビルがある。『駐車場無料』をうたえば、きっと集客力のあるビジネスホテルになるに違いない」、そう思った。

 当社は、ビジネスホテルを県内外に10(現在13)所有しているが、まだ長崎市内にはひとつもなく、かねてから「長崎市進出」は念願だった。

 さっそく、三井住友銀行にホテル建設という目的を伝えて融資を打診したところ、「ホテルへの融資は初めてだが、検討しましょう」と前向きな返事をいただいた。

 その後、コロナの真っ只中ではあったが、ひるまず、計画をどんどん前に進めた。

 プラン立案には島あゆみ常務と株式会社サンユニオンの四ケ所秀憲所長や松下勝栄所長が当たり、検討の結果、観光客もターゲットにしながら、基本はビジネスホテルスタイルにすることとした。

 観光客は魅力的なターゲットではあるが、当社はあまりノウハウがなく、結局、利幅は少ないがリピート率が高い、いつものビジネスホテルに落ち着いた。

 ちなみに、株式会社サンユニオンは、当社のホテルと分譲マンションの設計を継続的に手がけてくれている福岡の設計会社で、信頼のおけるビジネスパートナーだ。

 建設は株式会社西海建設にお願いした。工事中の施工管理には工務部長補佐の大橋圭吾が当たり、基礎工事のハプニングで多少工期は延びたが、二〇二二年三月完成し、準備期間を経て五月にオープンした。

 名称を「ステーションホテル長崎諏訪」とした。

オープンに花を添えるように、元ソニー長崎総務部長の西村英昭さんが、各客室に自作のはがき絵を提供してくれたのは、嬉しかった。

 オープン3カ月間は「オープン記念特価」でもあり、ある程度集客できたが、真価が問われるのは通常料金になった七月からだ。

 期待していたおくんちは三年目も見送られて、当てが外れた一方で、長崎市には新幹線開通を前にして大手シティホテルのオープンや進出計画が相次いでおり、百室程度の当社の中規模ビジネスホテルがどこまで存在を発揮できるか、これからが正念場である。

    

 

【15】子ども虐待事件

 結愛(ゆあ)ちゃん事件は、二〇一八年三月、起きた。

 帰宅して、何気なくテレビに目をやると、流れていたニュースに目が釘づけになった。

 五歳の船戸結愛(ゆあ)ちゃんが、父親に虐待され続け、母親には助けてもらえず、「おねがい。もうゆるして」と悲痛な叫びを残して亡くなったという、いわゆる「結愛ちゃん事件」だ。

「こんなことが世の中にあっていいはずがない」ニュースを見ながら、私には強い憤りがこみ上げてきた。

 「幼い子どもにとって本来、最後の拠り所となるはずの家庭で、支えとなるべき家族から虐げられ、見放され、何の楽しみもなく、どこからの救いも得られないまま、わずか五年の短い命を閉じた結愛ちゃん」

 私は、結愛ちゃんの無念さを思いながら、普段は朝だけしか座らない仏壇の前で、人知れず涙を流した。そして、つぶやいた。

「結愛ちゃん、ゴメンね!」

 涙を流したりお詫びを言ったところで、私たちにできることは何もないが、そうせざるを得ない気持ちだった。

 そして、二〇一九年一月、心愛(みあ)ちゃん事件は起きた。

 年初めの忙しいある日、遅めの夕食を取りながらふとテレビに目をやると、その事件のニュースが流れてきた。

 わずか十歳、小学校4年生の栗原心愛ちゃんが、父親から執拗な虐待を受けたあげく、最後のよりどころとなるべき母親からも救いの手が差し伸べられず、「たすけて、ママ、おねがい」の言葉を残して亡くなったという事件だ。

 報道を見た印象として、心愛ちゃんに対する父親の仕打ちや虐待の内容は、もはやしつけのレベルではなく、殺人的レベルと言ってよかった。

 私は、自宅に戻ったとき、結愛ちゃん事件のときのように再び涙した。そして、憤った。

「あまりにも不条理ではないか。なぜ、罪もない子どもがこんな目に遭わなければいけないのか」

 これも印象だが、結愛ちゃん事件と心愛ちゃん事件には共通性がある。いずれも、母の再婚相手の男性が虐待の加害者だ。そして、母はその虐待を止められないだけでなく、時には加担さえしている。そしてその背景にDVがあることも共通している。

 私たちは、これらの虐待について非力だが、しかしひょっとして、私たちの子ども支援活動が、「家庭のことだから放っておいてくれ」とうそぶく虐待者に対して、「子どものことについて目を光らせている者や社会がある」と思わせて、虐待をセーブする方向に働かないだろうか?

 そんな思いも込めて、支援活動を続けている。

 ところで、二〇二三年四月には「子ども家庭庁」がスタートする。文科省、厚労省、農水省、内閣府、そして警察庁が、今までの縦割り行政から脱皮して、力を結集

して子ども行政に当たることになる。その結果、すばらしい子どもの保護育成環境が実現することを期待してやまない。

 

【16】起業

 もし不動産業を始めたい人がいたら、お伝えしたいことがある。

 「何がもうかるか」より、「何をしたいか」を先に考えて取りかかるほうがよいと思う。

 不動産に限らずどんな仕事も、そのほうが楽しいし、長丁場にも耐えられる。そして、長続きすることは、物事を整理し熟成させるのに必要だ。「石の上にも三年」。

 次に、自分の個性や特徴を生かすことが大事だ。

 不動産を売る人や貸す人はほとんどが個人だし、それを求めるほうも個人が多い。そのため、「誠実さや努力」など、個人的な特性が認められれば、会社の規模は小さくても、成功のチャンスは広がって行く。小さいとか初めてだとかを気にする前に、「テイクアクション」だ。

 不動産の事業手法として、仲介、管理、建売、開発など様々あるが、自分の好みや能力や資金などに照らして、中心的なスタイルを決めたほうがよいだろう。限られた資源の中では、「選択と集中」はいつも必要だ。

 不動産には、売主貸主と買主借主がいるが、一般的に、売主貸主側につくほうが安定すると言われている。しかし、「自分はお客様に接するほうが好きだ」と思う人は、買主借主を重視する戦略もよいだろう。「好きこそ物の上手なれ」だ。

 インターネットは、強調しても、し過ぎることのない重要な要素のひとつだ。

 広告、営業、重要事項説明、契約、資料作成など、あらゆる場面で必要且つ強力な武器になる。

 開業資金については、銀行や商工会議所や日本政策金融公庫などが手厚い開業支援制度を備えているので、そこに相談するのもよいと思う。当社も、諫早信用金庫(現たちばな信用金庫)のお世話になった。

 資金負担軽減としては、当社では折々に、「等価交換方式」を実施した。

 つまり、土地の売主様に相談して、土地代の換わりに、アパート数棟や分譲マンション数室を取っていただいたのだ。買主としては資金的に助かる一方、売主としては事業用買い替えになり、税金の繰延ができる。

 運転資金調達としては、非常に難しくてお勧めできる方法ではないが、当社では二〇〇五年、関東財務局の承認を得て県下初の「不動産証券化」を実施した。新聞広告などで広く公募し、無事発行総額一億円の社債を販売できた。このことで、資金の直接調達に自信とノウハウができた。

 最近は、「不動産小口化商品」等も制度化されているので、ぜひそのような制度も勉強して実践してほしい。

 手間がかからずにお勧めなのは、「少人数私募債」だ。

 これは、一定の条件のもとで、銀行を経由せずに、直接資金調達ができる方法だ。

 いろいろな資金調達方法があるが、しかし、メインはなんといっても銀行融資である。当社は開業以来四〇年間、銀行に支えられてきた。十八親和銀行、西日本シティ銀行、三井住友銀行にもお世話になった。どの銀行も誠実で、相談や要望にはいつも親身になって乗っていただき、応えていただいた。銀行は、「信頼のおけるアドバイザーでありビジネスパートナー」である。起業する人は、自分の選んだ銀行と真剣に向き合うと、きっと報われるだろう。

 

【17】事務合理化

自分史の本と重複するが、当社ではいくつかの事務合理化を実施している。参考になれば、幸いである。

○省略漢字

 漢字を書くとき、楷書にこだわっていると、ひとつの文字を書くのに時間がかかる。

例えば、動、産、業、東、書…これらはしょっちゅう出てきて、その都度煩わされるが、中国の略体漢字で書けば、●、●、●、●、●となり、格段にスピードアップする。

 そういうわけで、思い切って省略漢字を使うことに決めた。ちなみに、私は、借用書や役所に出す書類も、省略漢字を使用している。

○音声入力

 文字入力の競争をしたら、多分、日本一のタイピストよりも私たちのほうが速いと思う。『音声入力方法』を利用するからだ。

 この自分史も音声入力で書いているが、もし手書きやキーボード入力なら、途中でとっくに諦めていただろう。

○サイン

 印鑑よりもサインのほうが手軽で、保管の必要もなく、個性的でもある。当社は、全員がサインだ。大谷選手のサインがもし印鑑だったら、価値があるだろうか?

○キャッシュレス

 現金によって人はどれだけ頭を煩わされていることだろうか!ホテル開業時、少しでも現金から解放されたいとの思いから、宿泊料金を現金で受け取らずに、自動支払い機を通していただくことにした。

○単語登録

 ビジネス文書は、同じ単語や文章を使うことが圧倒的に多い。だから、それらを単語登録しておいて、頭の一文字だけの入力で出てくるようにしている。

例:「あ」⇩ありがとうございます!

○「さん」づけ

 社員間は、東京ディズニーランドにならって「さん」で呼び合っている。

「こんなに大胆に省略漢字を使っていいんですか?」、「声を出しながら文字を入力するなんて恥ずかしいです」、「サインなんてしたことがありません」など、合理化案を出すたびに、社員からは不安や不審の声が聞かれたが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、今や定着している。

○訪問

 一方で、時間や手間がかかっても、相手先への訪問や資料持参は極力実施するようにしている。

 商談の相手のところへは極力、こちらから出かけて行くように気がけてきた。そのほうが、相手が恐縮してくれて、商談がスムーズに進みやすい。毎月の銀行への報告書も、私自身が持参している。代表者が持参したということで、一定の評価をしていただけるようだ。

○禁煙

当社のホテルでは、全九百二十室のほとんどを「客室内禁煙」にしている。決定のときには勇気がいったが、「案ずるより産むが易し」、お客様の理解はほぼ得られた。

    

【18】課題@

くる年二〇二三年を目前にして、当社は課題山積だ。

パルファン

私の朝は、よく歌とギターで始まる。

目が覚めてベッドから起き出すと、ベッドのすぐ側に立てかけているギターを手に取る。

 と言うとカッコいいが、マンションなので大きな音が立てられず、撫でるように弦を弾き、蚊の鳴くような声で歌う程度だ。

目覚ましとしては有効だが、上達にはほど遠い。それでも、「下手の横好き」 で、年数だけは経って、もうギターも歌も十数年になる。

二〇一四年からは、趣味が高じて「歌謡大会」を元映画館のパルファンで毎年一回催すようになったが、社員が一丸となって運営に当たってくれて、現在第八回までいっている。(当初は年二回開催)

コロナ禍で三年間お休みをしたが、二〇二三年秋にはぜひ再開して、歌好きの皆さんと再会を祝したいと思う。創立四十周年記念式典で素晴らしい歌声を聞かせてくれた、少女歌手東亜樹さんや諫早交響楽団をお招きするのもよいかもしれない。

ところで、パルファンは、当社にとって大きな課題のひとつだ。最上階をKDDIが基地局として借りてくれている以外は全く活用できていない。

いっそ、子どもの遊び場か子どもの図書館など、子どものための施設にするのはどうだろうかと、最近思いはじめた。年内にはある程度方向を決めたいと思う。

「ききつステーションタウン」

最近、タウン内の小さな公園で子どもたちがひしめき合って遊んでいる光景をよく目にする。そんな時、タウンの確かな成長を肌で感じる。

ききつタウンは、二〇一八年のホテルを皮切りに、分譲マンション、賃貸マンションと続き、現在五棟の建物が建っている。今、六棟目として、八十戸の賃貸マンションを設計中で、二〇二三年半ばに着工予定である。

さらに、七棟目や八棟目の賃貸もしくは分譲マンションも予定している。また、空地のままの広い商業ゾーンを埋めることも、これからの課題であり、楽しみでもある。

これらが予定通り出来上がれば、ききつタウンは文字通り完全な「タウン」になり、居住人口は優に千人を超えることになる。それを思うとき、私たちの社会的使命をあらためて感じる。

それにつけても、最近の建築費の値上がりは異常で、賃貸マンション一棟建てるのにも十億円かかる状況で、融資が心配だが、できれば五年以内の完全なタウンの完成を目指したい。

ホテル

今年、ホテルは13に増えた。(諫早市4、大村市2、雲仙市2、島原市2、西海市1、長崎市に1、京都に1)

現在ホテルに用途変更を申請中の大村市の賃貸マンション百戸を加えると、合計14になる。

来年の取得予定はまだないが、収支が合うようであれば、積極的に検討したいと考えている。

なお、小浜温泉の浜観ホテルを建て替える予定だが、建物が大きいため解体に一年を要し、建築に一年半をかけて、完成は二〇二五年秋になる見込みである。

 

【19】課題A

温泉

 ホテル業に進出したときに固く決めたことは、「当社は経験もノウハウもないので、ビジネスホテルに徹する」ということだった。その後二十年間、それを守って今日に至っている。

 しかし、気がついてみると、浜観ホテルをはじめ、雲仙荘、花みずき、もとの湯、そして島原ステーションホテルと、合計五つのホテルや施設が源泉付き、もしくは温泉権付きである。

せっかくの高付加価値で貴重な経営資源なので、これらの活用方法を勉強して、会社の業績向上や地域の活性化に生かさなければいけない。

太陽光発電

太陽光発電事業は、最近すっかり存在感が薄れている。やはり、全量買取制度や即時償却制度がなくなったことが大きい。

その一方で、脱炭素や原油高などを背景に、再び原発が勢いを盛り返してきた。

当社も、大きな売電収入(年間一億二千万円)に安住して、以前のような脱原発の情熱を失くしているが、世界が理不尽なロシアのウクライナ侵略などで安全を脅かされている今、再び脱原発と太陽光発電に目を向けなければと考えている。

電気代が高騰している状況なので、ホテルの自家消費用の太陽光発電設備は有力ではないだろうか。また、来年予定の建売においても、太陽光発電を取り入れるべきではないだろうか。

就労支援会社とのコラボ

「人手不足」 の問題は、特にホテル業で深刻さを増してきた。そのような中、必要に迫られてではあるが、ハンデのある方々との連携を模索し始めた。

九月一日リ・オープンした島原のホテル「花みずき」では、リネン業者が見つからず、思い余って就労支援会社に相談したところ、快く引き受けていただいた。今、洗濯を主とする作業を始めている。また、ホテルプレミアでは客室の浴槽の清掃などを、就労支援会社と共同でテスト中である。

もし、これらの仕事がお互いにフィットしたら、私たちもハンデのある方々も、どちらもウィンウィンの新しい世界が開ける。

建売業

振り返れば、一九九五年から輸入住宅を手がけて、当時は「県内初の直輸入住宅」とマスコミでも取り上げられ前途有望と思われたが、その後まもなくして円高が始まり、どの住宅会社も輸入住宅を手がけ始めた。

差別化ができなくなり、営業力も十分ではない当社は、早々に輸入住宅から手を引いた。それ以来、自社所有のアパートだけは細々とツーバイフォー工法にこだわって建てているが、一般住宅を建てることはなかった。

この度、一流の住宅会社数社から協力が得られることになったので、再びツーバイフォー工法を中心とする建て売りを始めたいと考えている。

大型プロジェクト

 現在進行形の大型プロジェクトが複数ある。いずれも、当社の収益構造に大きな影響を及ぼすビッグプロジェクトだが、年内には去就がハッキリする予定だ。

これに期待しながら、残り一ケ月あまり、全力で頑張りたいと思う。

 

【20】最終章 感謝

いつの頃からか、「マイウェイ」が私の十八番になったが、今年九月、たまたまこの歌を二回も歌う機会を得た。

 一回目は娘の結婚式の披露宴、そしてもう一回は草場絢音経理部長代理の披露宴で。

どちらも私が「歌は要らないの?」と誘い水をかけて実現したものだが、おかげでよい思い出になった。

ところで、この歌は「自分の道を行く」という歌詞だが、振り返ってみると私の道は、開業以来多くの人に支えられてようやく来れた道だった。

右も左も分からず住み始めた諫早市上野町。温かい町民の方々に接して、どれほど安心したことだろうか。

不動産を始めると同時に、まるでリレーのように次々と支援の手を差し伸べていただいた方々。上野町の梅野さん、平山町の松尾綾子さん、鷲崎町の橋本さん、久山町出身の大阪の岩田善子様、当社を信用して社債を引き受けていただいた方々…。

開業間もない頃、実績がないにもかかわらず、大きな案件の融資をしてくれた諫早信用金庫(現たちばな信用金庫)

手厚いお取引きをいただいたソニー長崎と幹部の方々。(創業時は日本フェアチャイルド)

中でも家族は、一番の心強い応援団だった。

父は、いつも事務所の入口そばの椅子に座って、私たちの接客の様子を楽しそうに眺めていた。誰よりも私の仕事の理解者だった。母は、人生を通して揺るぎない、絶対的な私の味方だった。妹も、東京からいつもきがけてくれて、折々にアパートや土地を買ってくれた。

弟は、開業して間もなく滋賀県から駆けつけてくれて、一級建築士として活躍してくれた。一番の「同士」だ。昨年、四〇周年記念式典を目前に他界したのは残念でならない。

妻徳永真佐子は、開業以来、賃貸案内、経理、クレーム処理など、オールラウンドに働いてくれて、人生でも仕事でも「最大のパートナー」だった。

長男徳永哲生も、創業間もない頃から、建築やマンション販売に全力で頑張ってくれた。近々、名実ともに経営の中枢になってくれることを期待している。

社員は、言うまでもなく、なくてはならない存在だ。

「ツーバイフォー工法を勉強したい」と突然会社の門を叩いて入ってきた外山博は、「求道士」然としていた。

「業界の生き字引」とも言うべき鉄屋瑞枝執行役員は、三十八年間、影日向なく働き、賃貸部門を固めてくれた。

島あゆみ常務は、ホテル部門のトップとして、今やマネジメント全般や新規ホテル開拓に敏腕を奮ってくれている。

銀行は、四〇年間を通して常によきアドバイザーであり、信頼のおけるビジネスパートナーだった。

「信頼」といえば、人生七十六年間、私は一度も人から裏切られた覚えがない。それだけでも、恵まれた人生であり、経営だったと思う。

多くの人に助けられ、支えられ、四〇年間歩いて来れた道だが、道中、それらの方々にどれほどご恩返しができただろうか?また、これからできるだろうか?

私たちはすでに創立五十周年に向かって歩きはじめたが、その道程の中でこのことは大きな課題だ。

 ここに、拙い自分史連載を終えるに当たって、これまでお世話になった多くの方々に、あわせて読者の皆様へ、取り急ぎこの紙面をお借りして深く感謝し、厚く御礼を申し上げて、締めの言葉とさせていただきます。