社内自分史 少年時代先生

 小学校時代、勉強にはさほど集中せず、それよりも、遊びやスポーツのほうに全力投球した。 

その後の人生で、体力的に丈夫であまり病気もしなかったのは、もちろん両親のおかげもあったが、少年時代に遊びで鍛えた基礎体力があったからに違いない。 

そして人格的には、小中学校の先生が大きく影響を与えてくれたと思う。私は親が一緒にいなかったために、どの先生も特別に私を気がけてくれた。

一年生のときの津江先生は、休みのときなどお寺で勉強を教えてくれたことがある。二年生の柳本先生は、夏休みに熊本市内の自宅に数日間連れて行ってくれた。三年生のときの堺先生は若くておしゃれで、赤い口紅が印象的だった。先生に淡い憧れを抱いたことを思い出す。 

そして、五年生のときの篠原先生。初めての男の先生で、しかも先生になりたてで若くて情熱的だった。背が高く、スポーツマンで、石原裕次郎のようで、男らしかった。先生はよく私たちの野球やいろんな遊びの仲間に入って一緒に遊んでくれた。 

ある日、女子が男子に集団でいじめられてクラスが大混乱した。実は、以前からいじめが続きエスカレートしていたのである。

「男子は全員ビンタだ。前に出ろ」

私はこの件には全く関係していなかったが、好きな先生の命令に真っ先に応じた。

「徳永くんか、仕方なかな」

先生のビンタ一発は痛かったが、なぜかさわやかな気持ちだった。  

堺市へ

 先生方の私へのケアは続いた。まるでリレーのように、次々にバトンを引き継ぎながら。

そして、転校した大阪の堺市でも、六年生の担任の滝口先生は、私に特別と言っていいほど目をかけてくれた。

昔からの商人の町堺ではそろばんは小さい頃から当たり前の習い事であった。六年生ともなるとほとんどの人が段持ちで、触ったことが少しあるくらいの私では天と地ほどの差があり、そろばんの時間はお手上げだった。それを一早く見抜いた先生は、「徳永君はせんでよろしい」と別のことをする許可をくれた。 

滝口先生は感情の激しい方で、不真面目な生徒には容赦がなかったが、一方で、私にはとても優しくしてくれ、二学期の初め学級委員長を決めるときも「徳永君はどうかな」と口添えしてくれた。そのため、転校間もない私が突然学級委員長になってしまった。 

秋の市民陸上大会のときにも、選手になるなど考えもしなかった私に「徳永くん、どうだ」と言って、結局私を全校代表の一人としてリレーの選手に抜擢してくれた。 

その滝口先生は、私が卒業して中学一年生になってまもなく、急に持病のガンが悪化して帰らぬ人となった。先生の私への積極的な言動をたどるとき、ひょっとして先生は私を最後の教え子として、精魂を注ぎ込もうとしたのではないかと思えてならない。